2011年




ーー−10/4−ーー 歓喜と失望の登山 


 先週の水曜日、北アルプスの蝶ヶ岳に登った。

 この夏の北アルプス幕営縦走は、悪天候に見舞われ、コースの途中で下山した。それが心残りとなった。秋が終わるまでにもう一度、天気が良い日に高い稜線に立ちたかった。

 この地に住んでいるのだから、いつでも気ままに登山ができそうだが、なかなかそうも行かない。ここ数年は、天候も不安定で、予測が付きにくい。自宅から見えるはずの北アルプスの稜線も、この夏はほとんど見えた日が無かった。

 先週になって、数日晴天が続きそうな気圧配置になった。期間の初日、早朝の霧がはれると、全天に青空が広がり、稜線がくっきりと見えた。それで意を固め、翌日登ることにした。

 
 安曇野を流れる烏川の谷の奥、三股登山口から登る。ここから蝶ヶ岳までのコースは、以前下山に使ったことはあったが、登るのは初めて。いつか登ってみたいと思っていた。自宅から日帰りで登れる北アルプスの峰は、燕岳、常念岳、爺ヶ岳、蓮華岳などが経験済みだ。それに蝶ヶ岳も加わることになる。

 蝶ヶ岳だけ登って降りてくるのでは、物足りない気がした。それで、常念岳まで足を伸ばし、三股に下山する周遊コースを考えた。長丁場で、アップダウンも大きいコースなので、時間勝負となる。午前10時までに蝶ヶ岳に着ければ先へ進む、という条件を自分に課した。

 前日の晩、ちょっとした事務作業が入って、就寝が遅れた。そのため、出発時刻を1時間遅らせ、6時に家を出た。三股まで軽トラで30分ほどの道のり。登山口の駐車場には、20台ほどの車が停まっていた。

 日帰りの軽装でスタスタ歩く。樹林帯の登山道は、ほどよい傾斜で、どんどん登る。高度計の針が、ぐんぐん上がる。この高度計、前回の山行ではひどく狂い、「当てにならない代物」の烙印を押されたが、今回は終始正しく値を示していたようだった。何が原因でそのような違いが出るのかは、分からない。

 9時50分に蝶ヶ岳の山頂に着いた。登山口からの標高差1300メートル、ガイドブックのコースタイムでは5時間のところを3時間で登り切った。この時点では、とても気を良くしていた。

 山頂に立てば、穂高岳の威容が眼前に迫る。槍ヶ岳に続く稜線や、その懐の谷間も、手に取るように見える。素晴らしい景観だ。360度をぐるっと見渡せば、八ヶ岳、富士山、南アルプス、中央アルプス、乗鞍岳、そして北アルプスの峰々を見送り、妙高山、四阿山、浅間山が望まれた。

 山頂を後にして、常念岳へ向かう。なだらかな稜線を30分ほど行くと、蝶槍という小さなピークに達する。その先へ進めば、いったん大きく下って、常念岳山頂へ350メートルほど登り返すことになる。この蝶槍のピークに差しかかったとき、急に激しく両足に痛みが来た。いわゆる「足がつった」という状態。それも、いまだかつてない激しさで、歩くことができなくなった。立っているのも辛い。かといって、足を曲げて座ることもできない。文字通りその場で立ちすくんだ。これは全く予想外の出来事だった。

 だましだまし、なんとか足を運んで、ピークにたどり着き、岩に腰を下ろした。しばらく足を揉んだり、擦ったりして様子を見たが、急速に回復する感触は無い。この先に進むと、戻ろうとしても登り返しになるので、動けなくなる恐れがある。仕方なく常念岳は断念した。

 このトラブルは、大きなショックだった。春先から裏山登りのトレーニングを繰り返し、体力には十分の自信があったのである。おそらく、登りのオーバーペースが原因だろうが、それも無理をして飛ばしたわけでもない。それなのに何故、ここまでのダメージが来たのか。ちょっとしたことでも響く年齢になったということか・・・

 苦悩は頭の中を駆け巡ったが、その時点でまだ11時過ぎ。時間はまだたっぷりある。稜線でのんびり過ごすことにした。もっとも、すぐに動ける状態でもなかったが。

 山の上で、何もしない時間をのんびり過ごすということを、私はこれまでほとんど経験したことが無い。テント場に着いて、夕食まで時間が空いた場合のように、持て余した時間をゆっくり過ごすということはあるが、時間をわざと遅らせる事はなかったのである。自宅から日帰りで燕岳に登っても、そそくさと下山して、昼過ぎには自宅に戻る。そんなことを自慢に感じるのが私のスタイルだった。

 稜線の岩屑の上に仰向けになって寝ころんだ。真っ青な空と、強烈な太陽。そして視野の外側には、ぐるっと連なるアルプスの峰々。この開放感、浮遊感は、何とも言えない心地良さだ。これまでと変わらぬ行為でも、ちょっとやり方を変えれば、これほど新鮮に、非日常の感覚をもたらす。この楽しさに気付いたのは、収穫だった。

 およそ3時間の間、稜線の上でゴロゴロしたり、ブラブラしたりしてくつろいだ。持参したデジタル・ウォークマンを取り出して、好きな曲を聴いた。数年前からやっている「登山名曲鑑賞」である。今回は、ハードスケジュールの登山なので、出番は無いかと思ったが、持ってきて良かった。ショパンのピアノソナタ第三番、ブラームスの交響曲第三番、そしてブルックナーの交響曲第八番などを聴いた。

 作曲家は、登山を頭に描いて曲を作ったのではなかろうに、何故これほどピッタリと、名曲は山岳風景にはまるのだろうか。高い所に上り詰めた高揚感、遮るもののない雄大な展望。そして肉体的疲労からくる高められた感覚、感傷的な気分。それらが一体となって、新鮮な感動を生むのだろうか。

 かのジョージ・マロリーは、「他のいかなるスポーツも交響曲にたとえることは出来ないが、登山には人を感動させる崇高なものがある」と述べたそうだ。登山名曲鑑賞とは関係ないが、そんなことを思い出した。

 2時前に、下山を開始した。不思議なことに、下りはなんともない。スタスタ歩ける。登りに使う筋肉と違うのだろう。さっきの自分が嘘のようであった。ノンストップで歩き、4時過ぎには登山口に着いた。

 下山で足が萎えないのは、裏山トレーニングの効果だろう。今後の課題は、ハイペースの登りに堪える脚力作りだ。ゆっくりなら、重荷を背負っても歩き続けられるが、速歩だと軽装でも足がやられる。裏山登りのメニューを、負荷をかけて歩くことより、空身で駆け上ることに重点を置いた方が良いかも知れない。あるいは、想定した登山のスタイルに応じて、両者のバランスを加減するか。

 ともあれ、自信過剰がもたらす災いを、痛切に感じた登山であり、またその災いのおかげで、登山の新たな楽しみを見つけたと言う、起伏の激しい一日だった。


 








ーーー10/11−−− パソコン作業対応スイングチェア「MAE-NOMERI」


 画像は、アームチェア・ピアスの脚にそりを付けた椅子である。ロッキングチェアのようだが、ロッキングチェアではない。その事は、後で触れる。

 元々は、大阪にいる息子から発せられた、アームチェア・Catのロッキングチェアを作ったらどうかと言うアイデアであった。ロッキングチェアと言うと、安楽椅子というイメージが強い。しかし、息子の提案は、パソコン作業に使う椅子だった。椅子に座ってパソコンを打つのは、意外と腰に負担がかかる。フレキシブルなポジションが取れるロッキングチェアは、腰に優しいはずだという考えだった。息子は、Catの形にこだわったが、私としては、いきなりCat版を作るのは冒険に感じた。それで、とりあえずピアスで作ってみることにした。

 腰痛は、それを患っている者にとって、誠に深刻な問題である。しかし、腰痛には玄人も素人も無い。腰痛を完全に治せる医者に会ったことは無い。反対に、民間伝承のような対策で、効果が出る場合もある。万人向けの治療法は無く、症状の程度や出方も千差万別である。患っている本人でさえ、原因が分からない。それも、体調によって変わるし、年齢的な影響もある。腰痛持ちが100人いれば、100通りのパターンがあるだろう。だから、これから私が述べることは、そのまま誰にでも当てはまるわけではない。信用して頂くのは有り難いが、裏目に出ても責任は持ちかねる。その点は、ご了承願いたい。

 永年、腰痛が出たり引っ込んだりを繰り返している私である。腰痛に関してはいろいろ考え、試して来た。椅子の選択も大事なことである。私の椅子は、そういう観点から作っている。だから、大竹工房の椅子は、座り易く、腰にも良いという自信がある。しかし、そんな椅子に毎日座っている私でも、腰が痛くなることがある。特にここ数年は、年齢のせいか、定期的に腰痛が出る。いったん痛みが始まると、いつもは問題無い動作でも、辛く感じる。椅子に座ることもそうである。普段は快適な椅子でも、ちょっとした姿勢の変化で、腰に来ることがある。

 特に、パソコン作業が腰に悪いと感じる。何故だろうと思案した。恐らく、椅子に座ったままで、両腕を前方に保持する姿勢が、腰に負担をかけるのだろうと推理した。同じような姿勢を取るピアニストにも、腰痛が多いらしい。机に向かってものを書いたり、食事をしたりするときも、腕は前方へ出るが、書く場合は片手で支える。食べる時は両手の肘を曲げて、胸の近くまで手を持ってくるので、荷重としての負担は少ない。また、腰を丸めた姿勢で食事をすることは、まず無い。パソコンの場合は、腰を丸めて背を椅子にあずけ、その一方で腕を前方に出す姿勢をとりがちである。その姿勢が、ラクに感じるからである。しかし、それがまずいのではないか。

 私自身の経験から、確実に腰痛防止になる行為がある。それは、裏山に登ることである。腰に疲れを感じ、腰痛が出る一歩手前という状態のときでも、裏山に登ってくれば、すっきりとする。そのことをある登山愛好家に話したら、多少の荷を背負って歩くとさらに良いと言った。重い物を持つことは、腰に悪いというのが通説である。しかし、20キロを超えるザックを背負って登山をしても、腰を痛めた事は一度も無い。その一方、朝洗顔をしたら腰痛になった、などという話もある。要は負荷の大きさでは無く、姿勢や体のバランスの問題なのだ。普段は気に留めないが、人間の体は重い。腕だって、切り離して持ってみれば、かなりの重さを感じるはずだ。人は、自分の体の重量で、腰を痛めるのである。

 何故山道を登る行為が腰に良いのか。それは、腰のまわり、背骨と骨盤の接続部分のあたりで、鉛直方向の体の軸が真っ直ぐになるからだろう。それは、歩くと言う動作の中で、無意識に行われるバランス調整機能である。

 同じ姿勢を長時間維持させられるのは、体にとってきつい事である。映画館で、快適そうな椅子に身を沈めても、2時間近くの間、全く動かないということはありえない。必ず体をひねったり、足を組み直したりして、姿勢を変えるはずだ。

 腰痛を防止するには、体の軸を正しく保つべく、自分でバランスを取る姿勢が好ましい。バランスを取るには、少なからず筋肉を使うから、疲労を伴う。しかし、疲労するという事は、筋肉が柔軟に動いているからである。一定の姿勢を取り続け、筋肉に硬直が生じるよりは、はるかに良い。

 パソコン作業は、椅子に深く腰掛けて、身体を預けてしまう度合いが大きいほど、腰に悪い。だから、浅く腰掛けた方が良い。しかし、浅く座っても、座面の角度が固定されていれば、自分でバランスを取る自由度は小さい。そこで揺り椅子という発想が生じる。揺り椅子は、浅く腰掛けると、自然に座面が前傾する。上半身を前傾させると、さらに座面が前に傾く。また、腕を前に出したときと引っ込めた時でも、座面の角度は変わる。座面の角度が変わるという事は、姿勢の変化に応じて、自然にバランスを取っているということだ。これが固定椅子ならば、座面の角度は変わらないから、体のどこかに負担が生じていることになる。その負担が、おそらく腰の回りに集中するのだろう。上半身の状態に応じて、無意識のうちにバランスを取り、体の軸を調整することが、揺り椅子の利点であり、それが腰痛防止につながるのである。

 これを提案した息子は、北欧のある国の小学校で、教室で使っている児童椅子が、全て揺り椅子だったのをネットで見たと言う。その方が、子供たちの集中力が持続するのだとか。自分が小学生だった頃、授業中に紙芝居などを見て興奮が高まると、椅子を後ろに傾けて揺すり、ひっくり返る子供が必ずいたものだ。じっとしていることは、不自然であり、ストレスを感じるのである。

 さて、この新作椅子のアイデアを、大竹工房のブログにアップしたら、知り合いの工業デザイナーA氏から電話が掛かってきた。この発想は、人間工学的に的を得ていているが、ロッキングチェアという呼び名を外したほうが良いとのアドバイスだった。ロッキングチェアは、安楽椅子という位置付けであるが、実際には安楽効果は無いことが科学的に証明されている。腰痛防止のための椅子が、実効を伴わないロッキングチェアと混同されることは良くないと。

 ロッキングチェアに安楽効果が無いと言う研究結果は、私は知らなかった。ロッキングチェアの構造、ロッカーの反り具合、後傾の度合い、などによって、検証結果は違ってくるのではないかとも思う。しかし、ロッキングチェアが、一種の憧れの家具であるにも拘わらず、意外に使われてないという事実は、あるかも知れない。私が子供の頃、父がロッキングチェアを購入したが、それはほとんど使われずに年月が経ち、結局不要と判断されて人手に渡った。
 
 このような経緯で、ロッキングチェアという呼び名は使わないことにした。命名は「パソコン作業対応スイング・チェア MAE-NOMERI」、前のめりである。

 さて、このMAE-NOMERI、使った感じはどうだったか。

 私は、かなり腰痛防止効果があると感じた。朝一番のパソコン作業で腰の調子が悪くなり、それが終日続くというパターンがこのところ多かったが、この椅子なら何とかしのげる。グキッとした痛みが出ることは無い。ユラユラするので、当初は心理的な不安があった。また、腰に疲れを感じることもあった。しかしそれらは、慣れるうちに問題無くなった。むしろ、先に述べた小学生の話ではないが、集中力が持続できるような感覚もあった。

 家内は、腰痛とは無縁の人だが、やはりパソコン作業に座り易いとの感想を述べた。

 冒頭に述べたように、これが誰にでも役に立つということは保証できない。私自身でも、もっと長い期間に渡って使ってみなければ、効果が実証されたとは言えない。また、ある時には効果があり、ある時は逆効果ということもあるかも知れない。腰痛体操などでも、効果がある場合と、かえって症状を悪くする場合が、表裏の関係であったりする。

 この椅子が出来上がった時、また一つのアイデアが浮かんだ。既成の椅子に、そりを取り付けるというものである。そりの上面に穴を開けておき、そこに椅子の脚を突っ込む。接着剤で止める必要は無い。つまり着脱可能である。私が作った椅子なら、脚のサイズとスパンは分かっているから、簡単に対応できる。使用状況に応じて、そりを付けたり外したりする。そういう使い方も、良いのではないかと思う。





ーーー10/18−−− 皮ごと食べる


 ラジオ番組で、「好きな信州の秋の味覚」というテーマで意見を募集したら、柿を挙げたリスナーが何人かいた。そのうちの一人が、「皮ごと食べる」と書いていた。それを聞いて、ある出来事を思い出した。

 次女が高校生だったころ、夏休みに部活のキャンプをした。保護者会長をしていた我が家は、夫婦で参加した。他にも数名のお母さんが来た。

 あるお母さんが、差し入れに桃を持ってきた。しばらく冷やした後、それを切って食べたのだが、皆さんは皮ごと食べた。それを見て私と家内は驚いた。桃は、皮をむいて食べるものだと決めていた。驚いたあまり、そのことが口に出た。すると、信州では果物を皮ごと食べるのが普通だと言われた。リンゴはもとより、桃や柿まで皮ごと食べると言う。私が、「えっ、ホントですか?」と聞き直すと、お母さんたちは「そーよ、そーよ」と口を揃えた。

 私は冗談に、「バナナも皮ごと食べるんですか?」と言った。するとお母さんたちは急に真顔になり、「バナナはむいて食べるわよ」と言って、キッと私を睨んだ。

 信州の人は、果物を皮ごと食べる。それは、栄養摂取の点で優れており、信州人の合理的な考え方がうかがえる。




ーーー10/25−−− ベンチ四種


 この夏はベンチを四種類作った。過去には、十数年前に一度だけ、ベンチを作ったことがある。それ以来空白の期間が続いたベンチだが、今回何故新たに作る気になったのかは、自分でも分からない。ただ、創作の動機が、恒例となっている秋の展示会にあることは、疑いの余地がない。

 定番椅子であるアームチェアーCatの雰囲気を取り入れたベンチを作ろうと思い立った。ただし、背もたれはスピンドルを使うことにした。その方がゴージャスに見えると思ったからである。初回は、クッション座版を作る。板座版と比べると、気軽に作れるからだ。

 新しい作品は、一発で成功する可能性が低い。だから、高価な材は使いたくない。何年か前に近くの農家から貰った材を使う。これは、農地の端にあった立木を伐採し、製材して、倉庫の隅に保管してあったものだとか。農家は、使うあてが無くても、材木を取っておくことがある。その材は、クヌギかコナラだと思われたが、保管状態が悪かったためか、菌が入って変色しており、商品に使える代物ではなかった。しかし厚みは6センチあり、今回の試作にはもってこいの材だった。

 試作品なので、手の込んだ仕上げはしない。刃物で削ったままにした。スピンドルも、ロクロ加工に出すとコストがかかるので、自分で削って作った。材の変色を隠すために、着色塗装をした。一発で決まることは少ないと書いたが、そのまま商品として通用する形のものが出来上がった。荒い仕上げに黒い塗装も、ラスティックな味となった。

 画像は→こちら

 名称は、カミさんのアイデアを採用した。家の中で使うベンチの意味である。

 
 クッション座版の結果が上出来だったので、続いて板座版に取り掛かった。寸法はほぼクッション座版と同じだが、背もたれ上部の笠木の位置を3センチ上げた。変更前の高さだと、笠木の下端が僅かに肩甲骨に当たる感じがしたからだ。長身の私が、背筋を伸ばして座って、ぎりぎり当たるくらいだから、問題無いとも言えるが、一応変更した。

 クッション座版で外形が固まっているから、設計も製作も、比較的容易に進んだ。一つのハードルは、座板の加工だった。私はこれまで板座の椅子を作った経験が少ないので、いささかの苦手意識はある。しかしこれも、周到に加工手順を踏めば、きっちりと結果が付いてくる。

 出来上がった椅子(→こちら)は、なかなかの存在感である。やはり板座の椅子は、実用的な観点はさておき、木工家具としての見栄えが良い。ベンチはサイズも大きいので、なおさら押し出しが良い。展示会向けのアイテムとして、好適だと思う。

 
 これでベンチは十分と思っていたら、8月になって友人のM氏から、ある提案があった。五本足のベンチである。

 それで作ったのが→これ

 私自身は、初めてチャレンジしたものながら、結構良い印象を持った。しかし、M氏には異論が有ったようである。

 良く出来たとはいえ、少しサイズが小さいように感じた。そこで、同じパターンでもう少し大きく作ることを思い付いた。その計画をブログに表したら、M氏から電話があった。曰く「余計な事だと思うが、雰囲気を変えてみたらどうか」とのことだった。ここでは詳細を省くが、氏はいろいろな点に渡り、前作に関して的を突いたコメントを展開した。

 「行きずりの人の批評や、同業者のコメントは、真に受ける必要は無い。しかし、買ってくれる客が言う事は、真剣に聞かねばならない」と、開業以来お世話になっているデザイナーのA氏から言われたことがある。M氏は、これまで何点もの作品を購入してくれた。私の仕事の良き理解者であり、支援者でもある。本気で心を砕いてくれるから、そのコメントには説得力がある。

 彼のアドバイスを取り入れて、五本足ベンチの第二段は、こんな形になった(→こちら)。

 私はとても気に入った。画像では伝わり難いかも知れないが、前作とはガラリと違った雰囲気になった。M氏の反応はまだ寄せられていない。きたる展示会で現物を見て貰えるから、その時に感想を聞くことにしよう。

 先ほど触れたM氏のコメントの一つに、こんなのがあった「お前の作品は、元エンジニアの作品だ。計画的で行き届いた、手堅く生真面目な仕事だ。それはそれで良いが、少しは遊んだらどうだ。展示会と言う場は、そのためにあるんだろう」








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